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四条通りを越えて下っていくと、木屋町通りは人通りも少なく、夕方にはぼんぼりに灯がともされて、しっとりとした情緒あるたたずまいです。 五条大橋まで来てしまいました。 橋のたもとに「扇塚」があります。平安時代初期からこの地が扇の産地であったそうです。 橋のたもとの小公園にあの廣誠院でつくばいになっていたのと同じ石が6本も立っていました。 こちらは短く切られていないので、側面に書かれている文字も「天正拾七年五月吉日」と全部読めました。やっぱり橋の礎石だったのです。 木屋町散策もここまで来て体力の限界、バスに乗って帰ってきました。五条通りから南もまたいつか行ってみたいです。 #
by vivasan1
| 2005-06-06 03:47
| ぶらり都めぐり
木屋町通りと四条通りの交わるあたりには、昔なつかしい喫茶店がいくつかあります。 先ずは四条通りより一筋上の高瀬川べりにある音楽喫茶”みゅーず”。側の大きな木もそのままあるのはうれしいけれど、最近はお客のおしゃべりで音楽もかき消されているようで悲しーい。 その横の路地を河原町通りに向かって入ったところにある”築地”。重厚な内部の造りや調度品がとても落ち着いた気分にさせてくれます。 ”みゅーず”の南側、飲食店ビルの間に挟まれて頑張っている”ソワレ”。東郷青二の絵などがあって、店内が青の色調で統一されている、よく見ると屋根の上にも素敵な塔があったのを、初めて発見。 四条通りを南に越えて、数軒目にある”フランソワ”、近所にピンクの灯りのお店ができて、通りの品格が落ちたのは誠に残念。昔は学生や文化人が議論を戦わせていたとか言うけど、かなり高級な感じで、貧乏学生はあまり行けなかったのではないだろうか。 #
by vivasan1
| 2005-06-06 03:22
| ぶらり都めぐり
龍馬通りからさらに南に行くと、旧立誠小学校跡があります。このあたりは元は土佐藩邸があったところ。 立誠小学校跡の北側に土佐稲荷(岬神社)があります。土佐藩士達がお参りし、龍馬も来てただろう、ということで絵がかかっていました。 立誠小学校跡の高瀬川べりには角倉了以の像がありました。舟に乗ってクワ(?)を持っているところがおもしろいです。 #
by vivasan1
| 2005-06-06 02:54
| ぶらり都めぐり
廣誠院の南に高瀬川越しに見えるのは、佐久間象山と大村益次郎の遭難之地碑、幕末このあたりで暗殺されました。「佐久間象山・大村益次郎遭難地」という小さな石碑は、もう少し下った三条木屋町三条小橋の角にもありますが、そちらはこちらのお知らせ版です。 この碑の向かいあたりに木戸考充(桂小五郎)の寓居跡(現料亭「幾松」)があります。長州藩屋敷のすぐ向かいだったんだ。 少し下って、御池通りの南側、木屋町御池の角に「加賀藩屋敷跡」碑があります。御池大橋は昔はなくて、御池通り一帯が加賀藩邸、その南側に「二之舟入」、その南に対馬藩邸がありました。 三条通りを越えてすぐの東側に瑞泉寺があります。秀吉の甥で自害させられ、その家族39人も三条河原で処刑されたという豊臣秀次のお墓があるお寺です。あまりにむごくて、いまだに中に入ってお参りできていません。 その向かい、木屋町通りから河原町通りに通じる道は今では「龍馬通り」と呼ばれているらしいです。道の北側に坂本龍馬が隠れ住んでいた材木商「酢屋」が今も木材関係のお店を出しているからです。 2階は龍馬関係の資料を展示している「ギャラリー龍馬」になっています。家の外観は昔の様子を留めていますが、館内は現代風。南側が龍馬のいた部屋、北は海援隊本部の部屋だったそうです。2階南向きの窓から、昔はその前に四之舟入が開けて見えたそうで、窓から龍馬がピストルの試し撃ちをしたとかいうことです。 見学料300円払うと、下の店員さんが上がってきてくれて説明もしてくれます。龍馬が暗殺された後、詮索を恐れて関係する物を焼いてしまったそうで、龍馬の寓居だったことも長く秘密にしていて、こうして公表できるようになったのは戦後のことだそうです。 毎年11月15日の龍馬の命日前後には、「龍馬からの手紙」募集や追悼展(今年は11月12~27日)も開いているそうです。 #
by vivasan1
| 2005-06-01 07:40
| ぶらり都めぐり
この日のメインは5月31日まで特別公開している廣誠院でした。1892(明治25)年、薩摩出身の実業家、伊集院兼常が建てた数奇屋風の別荘です。 このあたり(京都ホテル一帯)は元は長州藩の屋敷があり、その後京都府の勧業場が設けられ、それが民間に払い下げられた後、広大な敷地に鴨川の水を引いて流し入れ、有力政財界人達の別荘が建てられたのでした。やがて、町がにぎやかになると、岡崎あたりに別荘地は移っていきました。この家はやがて、近江出身の下郷家、広瀬家へと渡り、昭和27年に臨済宗のお寺になっています。参観料500円。 沓脱石は加茂の真黒石。立派です。 池にかかっている長い一枚岩の橋。 茶室の下を水が流れ、書院のまわりの高欄からも水の流れが見えて、高瀬川に浮かぶ舟の上にいる感じを受けることができます。 書院も茶室も庇の深さが3メートル以上で、細い柱で支えられています。 お茶室の前のつくばいは三条か五条の橋の橋脚を使ったものらしく、「天正○年」と彫られています。こういうのを使うのは植治の手法だけど、このお庭は植治より前の年代のものだそうです。 高瀬川からの水の取り入れ口 再び高瀬川に水を流すところ 押小路木屋町の南西角にあり、東側を高瀬川に接しているので、今まで外を通っていたのに、こんな所にこんなに立派なお屋敷があるとは全く気がつきませんでした。 押小路通りを隔てて向かい側に並ぶ町家は、裏が「一之船入」に面しています。 #
by vivasan1
| 2005-05-31 00:52
| ぶらり都めぐり
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